2021/12/01 12:03

https://howlettfarm.thebase.in/blog/2021/10/04/111605

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農業大学で勉強・資金を貯めるためアルバイト


そんなわけで小規模な有機農業に興味を持った父は、東京の農業大学に進学し農業の勉強を始めることにします。


祖国であるカナダではなく、生まれ故郷の日本で農家になることを決めたのは、カナダと日本の文化の橋渡し役になりたいと、身一つで戦後間もない道東に宣教師として移住した祖父の影響も大きかったみたいです。


当時、アメリカと同じく組合や流通市場が幅を利かせていた日本の農業界で、組織に属さず個人の力でどこまでやれるのか試してみたいという野心もあったそう。


大学を卒業後は、そのまま東京に残って2年間トラックの運転手として働き、農地をローンで購入するための頭金を稼ぎました。


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母と出会い結婚したのはこの頃で、結婚後すぐに北海道函館市の隣町である北斗市(旧大野町)に1haほどの農地を買います。


北部ハイブッシュブルーベリーへの強いこだわり


肝心の栽培品目に関しては、このときからブルーベリー一本に絞っていました。主な理由は、


・北アメリカではとてもメジャーなのに、当時の日本では全く知られていない食材だったから

・農薬を使わずに栽培できる数少ない果物だから

・小規模栽培に適していて、初期投資額を最小限に抑えられるから


誰もやったことがないことにチャレンジしたくなるのも、きっと祖父譲りの開拓精神を受け継いでるからでしょう。


また、ブルーベリーには大別して


・北部ハイブッシュブルーベリー

・南部ハイブッシュブルーベリー

・ラビットアイ

・ローブッシュ


の4系統があり、それぞれで生育に適した緯度が異なるのですが、寒冷地での栽培に向いた北部ハイブッシュにかなり強いこだわりがあったようです。


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というのも、祖父の出身地であるトロント近郊は北部ハイブッシュの産地で、全系統の中で最も複雑かつ芳醇とされるその味わいを日本の消費者に紹介したいと思っていたから。父が子供の頃は祖母がよく北部ハイブッシュブルーベリーの品種でパイを作ってくれていたみたいで、いわゆるお袋の味ってやつだったんですね。


栽培地として北斗市を選んだのは、全国各地の気温や気象条件を調べたところ、ここが北部ハイブッシュを育てるのに最も向いている地域だと判断したからだそうで、確かにウチの地域は、夏には寒暖差があって実の味わいが濃くなるし、降雨量も少なすぎず、かと言って多すぎもせず、積雪量もちょうど良いので、枝が凍害に遭って枯れることもほとんどありません。


祖国カナダから苗を直輸入


苗は、当然当時の日本では手に入らないので、トロントから700本ほど(系8種)を輸入しました。


ただ、輸入したからといってすぐに自分の手元に届くわけではなく、札幌の検疫所に1年間預けて、病害虫がないか調べてもらう必要がありました。ここの段階で病害虫が発見されると全ての苗が焼却処分となるので、待っている間は気が気じゃなかったそうです。


余談ですが、僕が生まれたのはちょうどこの頃(1986年)。苗が札幌から無事に届いた後は、まだ幼かった僕をあやしたりおんぶしたりしながら、半年間ほど植え付け作業に明け暮れていたようです。


700株分の植え穴をスコップで掘って、用土をトラクターに乗せて圃場内に運び込み、ひとつひとつの植え穴に重たい用土を投入していくわけですから、そりゃー大変だったと思います。


そんなこんなで年月が経ち、ブルーベリーの木もある程度大きくなってようやく出荷の準備が整い、1990年、ついに正式に農園を開園させます。


が、ここでひとつ大きな問題にぶち当たります。それは、思っていたよりも全然ブルーベリーが売れないということ。


創業後は教職に就き兼業農家に


今でこそちょっと想像しにくい話ですが、当時の日本においてブルーベリーを知っている人はあまりおらず、食べたことがあるという人は全くいなかったそうで、函館市内の様々なお店に持ち込んで売り込んでみても、買い取ってくれるところはほとんどありませんでした。


そんな中で興味を持ってくれてメニューに使ってくれたのが、当時開業したてのあるケーキ屋さんとパン屋さん。この2店はすぐに道南のパティスリー・パン業界で有名な店舗となり、これを足がかりに、父は毎年地道に色々なお店へブルーベリーの持ち込みを続けて徐々に販路を拡大していきました。


が、ネットがなかった当時は遠方のお客さんに販売するのが難しく、地元のお店との取引だけでは十分な収入を得られなかったため、父は函館市内の高校で英語教師として働くようになりました。


そこから、教師としてフルタイムで働き、夏休みの期間中だけパートタイムで農園を開くスタイルに。


ただ、父は農園では生計を立てられないから仕方なく教職に就いたというわけではなく、元々教育の分野にも興味があったそうで、学校と農園の仕事の両立を心底楽しんでいる様子でした。


僕も小さい頃は夏の収穫期になると摘み取りの手伝いをしたり、虫取りをして遊んでいたりしたので、農園は遊び場のようなものでした。


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僕が父から農園を就いだのは2012年。幼い頃から慣れ親しんだ場所で、今こうして父の意思を理解して志を共にしてくれるパートナーと働けていることが嬉しいですし、こんな素敵な場所を一から作り上げてくれた父と母には感謝しきりです。


ハウレット農園のロゴには父の似顔絵を使用していますが、これには創業者である父への尊敬の念を込めて、僕が園主となった今もこのデザインにしています。やはり父あっての僕の今の立場ですからね。初心忘れるべからずということで。キャラも非常に立っているのでw


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最後まで読んでいただきありがとうございました。今回は父の話をしましたが、次は、3年ほど前から農園を一緒にやっているパートナーと彼女の息子の話や、僕が就農したいきさつなどについても書いていければと思っています。


それでは、良い一日をお過ごしください。