2021/10/04 11:16
こんにちは! 北海道北斗市でベリー専門栽培農園【ハウレット農園】を営んでいる道産子カナダ人農家のJustinです。
僕が就農したのは2012年。創業者である父ピーター・ハウレットから、しばらく管理されていなかった畑を引き継いで手を入れ直し、農園を再スタートさせました。
(当時父は英語教師をしていて農業は副業としてやっていたので、圃場全体の管理まで手が行き届いていなかったんです)
↑は農園のロゴで、教え子のひとりに書いてもらった似顔絵を使用しています。↓の写真をご覧いただければ一目瞭然ですが、まんまこの見た目です。
最近、よく考えてみたら、父が農園を始めたいきさつについてちゃんと書いたことがなかったなと気づきまして、この記事では父について書いてみようと思います。
ちょっと照れくさいですがw 農園がどのようにスタートしたのかを振り返る良い機会になるかなと思ったのと、父がベリー栽培にかけた思いも知ってもらえればと考えまして。最後まで読んでいただけたら嬉しいです!
簡単な経歴
↑5年くらい前に畑で撮影してもらった写真です(当時父は60歳で、僕は28歳)
見た目からして外国人感満載のカナダ人の父ですが、意外に生まれも育ちも北海道名寄町の生粋の道産子。
なので日本語はペラペラで(英語が母国語だが、どちらもほとんど同じレベル)、食事もとにかく日本食が一番好き。宮沢賢治をはじめとする日本の児童文学やアイヌ民族の歴史にも造詣が深く、見た目とは裏腹に中身は日本人と言っても差し支えないでしょう。
80年代後半から2018年までのおよそ30年あまりにわたって、地元函館の高校で英語の先生として働いていました。
そのほかにも、
・環境問題の啓蒙活動を行う委員会に籍を置いていたり、
・自然エネルギーを推進するNPOの代表を務めていたり、
・児童文学・アイヌ民話の絵本を英訳して出版するプロジェクトを行っていたり、
と、肩書がたくさんあるのですが、ひとつひとつ詳細に紹介するとと長くなってしまうので、ここでは端折ります。
↑父と僕との共著「変えよう!日本の学校 カナダ人英語教師が提唱するエンパワーメント教育」。父の生い立ちや考え方についてはこちらの本に詳しく書いてありますので、ご興味のある方は是非ご一読を。日本の英語教育の在り方と教育システム全般をズバッと切って提言をたくさん盛り込んだ内容となっています。
ボブ・ディランに憧れたヒッピー青年が、なぜ北海道で農園を始めたのか
実家にあるアルバムを開くと、青年期の父の写真の約半数は、今とは違って髪の毛がフサフサで腰まで伸びてるくらいの長髪で、ボロボロのジーンズに上半身は裸、手にはアコースティックギターという出で立ち。
(写真をこちらに載せたくて実家にあったはずのアルバムを探してみましたが、どこにしまってあるのか分からなくて結局見つからずじまい。口惜しや)
そう、何を隠そう、父はボブ・ディランに入れ込んでいたバリバリのヒッピーでした。
18歳くらいから20歳くらいまでの2年間は、ギター片手に、時々路上で歌って小銭を稼ぎながら、北アメリカ・北欧をヒッチハイクで横断する旅に出ていたそうです。
横断の主な目的は、様々な農業の現場を見て回ること。
システマチックな大規模農場から、家族で営んでいる小さな有機栽培農家まで、スタイル・規模に関わらず様々な農園を訪れました。
そんな中、父が特に衝撃を受けたのは工場式のどでかい養鶏場。
折しも1970年代当時はファストフードが世界を席巻し始めた時代。某ファストフードブランド直営のアメリカの養鶏場を見学した際、見渡す限りのケージにすし詰めにされて飼育されている鶏たちの姿を見て、ショックのあまりしばらく言葉が出なかったそうです。
そして何よりも驚いたのは、当時盛んに推し進められていた農業の大規模化に対して、北アメリカにおいても、日本においても、異を唱える人がほとんどいなかったということ。
多くの人が、「効率がさらに良くなる」「今よりももっと便利になる」という利点だけに目が行っていて、
・生産効率を追い求めるがあまり発生してしまう環境汚染・公害
・従来の小規模農家が生き残れなくなるような、大資本にだけ都合の良い市場ルールの形成
・体に悪い食べ物が安価な値段で大量に出回り、安心安全で体に良い食べ物の値段がどんどん高騰していく現状
といった負の側面に気づいていない、もしくは見てみぬフリをしているという状況に強烈な違和感を覚えたそうです。
後編はこちら↓